気づけばすっかり秋めいて、吹く風も涼しくなってきました。
昔から、「好きな色は?」という質問に対して、青や赤なんて子供らしい発想もなく、ベージュやら茶色と答えていた人間にとっては、秋が一番合っている季節なのかもしれません。
「秋の夜長」なんていう、時間も好きだし、気の利いた言葉の響きも良いし。
夏冬のシーズンスポーツはおろか、スポーツ関連を一切しないので、もっぱらな健康づくりは散歩です。
秋は、散歩好きにとって、心地よい季節です。春とはまた違う印象。
散歩は毎日ではないけど、気が向いたときにしています。
音楽も聴けるし、アカペラの音取りだってできるし、考え事もできるし。
今住んでいるこの土地では、鴨にだって出会えます。素晴らしい。
いつも通る散歩のコースは、ほとんどが住宅地です。
住宅地の中に、川があって、線路があって、葬儀場がある。
葬儀場があるから通るわけではなくて、通るところに偶然葬儀場があるだけです。
そんな散歩コース。
その葬儀場は、わりと新しく建てられたところのようです。住宅地の中にあるので、マンションや小さなスーパーも周りにあります。
そのマンションには、旗がたっています。
「葬儀場反対。出て行け。」と。
僕は家の近くに葬儀場があっても気にならないので(徒歩圏に2つ)、その旗を見るたびに嫌な気分になります。
目を覆いたくなります。
死を遠ざけたがる現代人は、葬儀場ですら遠ざけたい対象なんでしょうか。あ、かくいう僕も現代人ですね。
人が亡くなるのは悲しいですが、亡くなった人とのお別れの場を嫌悪する理由って何なんでしょうね。火葬場が有る場合は、嫌な印象を受ける気持ちもわからないではないですが、火葬場が無いところの場合。
死はもっと身近にあったはずだ、ということで、デス・エデュケーションなる死の教育が見直されてきている、なんてこともあるようですし。
死への偏見を無くすのって大変なんでしょうね。科学や宗教の説明では理解できないから、その狭間で浮いているような。
自分の周りに関して言えば、ここ1,2年で、親戚の人間が重い病気になったり、亡くなったりすることが多くありました。
普段会うことの無いような少し遠い親戚であっても、葬儀の場は、悲しくて仕方ありません。涙が止まりません。別れの場は辛いですね。
でも、葬儀には参列して良かったと毎回思います。
悲しい場なのに。
それってなんというか、けじめがつくというのか、そんな感じを受けたからかもしれません。
葬儀に出たところで、その人が亡くなった事実は変わらないし、その人や周りの人のことを思うと、また悲しくなったりしますが、そういうのとはまた違う気がします。
最後のお見送りしてあげるための場、と良く聞きますが、もしかすると葬儀って、残った人たちのための場なのかもしれないな、と思ったりもするわけです。
けじめをつけたり、心の整理をしたり、自分の周りの人たちとまた関われる場。
まぁ、知識もなければ、宗教にそんなに関心もない人間の推測に過ぎないわけですけども。
日本人の平均寿命は上がりっぱなしですが、死ぬ確率は変わらず100%だし、明日死ぬ確率は0%ではありません。
自分や自分の近くの人が、もし亡くなったら、どうするのがその時の自分たちにとっての答えなのか、ちょっとぐらい考えてた方が良いなぁ、とも思ったりしますね。
今日のことに、未来のことに、死のことに。
のらりくらりと生きてるようで、考えることは多いなー。