鱧浪会というアカペラサークルをしていることもあり、音楽についてよく考えます。
18歳の頃からアカペラを続けて、サークルまで作っておいて何なんですが、僕は日常に音楽が無くても大丈夫な人だったりします。
子どもの頃を思い返してみても、日常の中で音楽が流れていたような記憶もありません。
だからこそ余計になのかもしれませんが、音楽の必要性だとか影響だとか、そういうことを最近考えたりするようになりました。
そんな折、コラムを書く機会があったので書きました。
考えてみると、今世の中に溢れているモノゴトと、音楽というのは実は違うようでいて、似たようなところが多いのかもしれません。
生活必需品であるものってほとんど無くて、大半が暮らしを便利にするものだったり彩りを与えたりするものな気がします。
せっかくなのでそのコラム、載せておきます。
身近な音楽
お昼ごはんを食べにお店に入り、店員さんに席まで案内されつつ歩いていると、琴の音が聴こえてきました。
実際の楽器が演奏されているわけではありません。スピーカーから店内BGMとして、J-POPの音楽が琴の音色で流れているようす。
その店のインテリアには、竹が使われていたり、白木の引き戸があったりと、たしかにその「和」な空間に合っている音楽です。
空間に対して音楽が合っているというかむしろ、その音楽が流れているからこそ余計に、その「和」な雰囲気というものを感じるのかもしれません。
気にしたこともありませんでしたが、どのカフェやレストランも、それぞれのお店に合った音楽が流れています。
カフェではそのカフェっぽい音楽が流れていたり、大きなチェーン店では独自のラジオ風BGMが流れていたりだとか。
(昔ながらの定食屋さんは無音、もしくはTVの音が流れているだけですが、それもまた、雰囲気を醸し出すBGMだったりするのかもしれませんね。)
こうしてみると、音楽というものにはどうやら「らしさ」を演出する効果があるんでしょう。
ボサノヴァなジャンルを流しているとすこしまったりとしたカフェらしく感じるし、使う楽器を琴に置き換えるだけで急に和な印象を覚えます。
散歩に出たときに、少し注意を向けてみると、飲食店だけではなく音楽はさまざまな場所で流れているのでした。
横断歩道が青になったら音楽が流れだす。
多くの人がイヤホンをしながら歩いている。
車から室内の音が漏れて聴こえてくる。
ショッピングモールへ到着すると、賑やかで明るいBGMが流れていて、セールの案内などがされている。
ひとつひとつのショップでも、それぞれの音楽が流れていて。
駅まで歩いてみると、ホームごとに電車が来る音楽が違うよう。
本当に街中が、いろんな音楽で溢れていますね。
帰り道のこと、小さな女の子とお母さんが、手を繋ぎながら歩いていました。
平日の日が暮れる前のことです。近づきすぎると不審者に思われなくもなかったので、曲名まではわかりませんでしたが、歌をうたっていました。
この日に聴いた最後の音楽でした。
これから家に帰って夕ごはんでしょうか。
なんというのか、
いいなぁ、
と思いました。
決してその女の子も、お母さんも歌が上手い感じではなかったけど、聴いていたくなりました。
今の時代は、これまで以上に気軽に音楽を入手できるようになったので、いろんな音楽を聴くことができます。
CDを買わなくても流行りの音楽を聴くことができるようにもなりました。すごい。
有名でクオリティの高い音楽に触れるためのハードルが、とても低くて済みます。
でもそれって見方を変えると、どんどんと無数の曲を聴き流して、そうしてすぐにもう聴かなくなるような、使い捨てで消費する文化になっているようなそんな気がしたのでした。
聴いて、心が少しでも動く音楽って、そう簡単には無い気がします。
とは言いながら、そんな音楽って実はとてもとても身近にあるような気がします。
親子でうたう歌。
友達同士でうたう歌。
好きな人にうたってもらう歌。
身近にある、音楽を聴く。
身近にある、音楽を楽しむ。
そういうの、また大事に感じられるようにできるといいですね。
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