イリモノづくり

デザインは身近にありました。要るもの作ろう イリモノづくり。

[コラム]スキマに文化

プロジェクトでは、一年間の活動のまとめ的な報告書として、冊子を作ったのでした。
実際に自分がつくったわけでもないけれど、つくってもらうこともまた大変なんですね。
方針検討や校正やデザインチェックなどなど、いろいろ味わえた冊子づくりでした。


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冊子の中身を勝手に載せるのはやめておきますが、僕が書いたコラムのページがあったりします。
そこだけせっかく書かせてもらったので記念に載せておきます。


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スキマに文化

 まか通の活動に向かう日、家から最寄りの駅に向かって、財布を取り出してスッと改札口に触れる。それだけで電車に乗れる。それだけで違う場所に移動できる。あぁそういえばいつの間にか切符を持つことが無くなっていましたね。昭和の終わり際に生まれた私のような人間にとっても、随分と世の中は便利になったなと思います。

 合理性を追求してきた現代、その結果がまさに今なんでしょう。私も長くはない期間ですが、開発職をしていたときには合理性を求めた仕事でした。何かと口実を作って、社会のスキマを見つけてこじ開けては、これがあった方が便利だ、ユーザー中心だと言って新しいものを生みだしてきた時代のように思えます。未だに、社会の多数では、便利と幸せが同じものだと思っているかのようにさえ映ります。
 とはいっても便利さは確かに、幸せのひとつの要因であるのかもしれません。不便な世の中では困ることも多いですし。インターネットが普及していなれば、病院を調べられずに助けられなかった命があったかもしれない。行きたい学校がすぐ近くにあるのにそれも見つからなかったかもしれない。友人と安くいろんな国の料理を食べ、語り合うこともできなかったんでしょう。世の中がグローバル化されて技術が行き届いた大きな利点は、世界が近くなったことだと思います。いろんな距離が小さくなりました。反面で、世界が画一化されたという問題が残りました。どこでも同じものが手に入る。同じ便利さがある。それは嬉しいことではあるけれど、どこでも同じというのでは価値が無いように思えます。その土地にはその土地ならではの人がいて、環境があって、技術があって、文化があるんだから。お互いに違いがあるからこそ人は人を頼り、人は人を好きになるものなんだから。

 数年前、働きながら通った2度目の大学を卒業して、無職の状態だった頃がありました。お世話になっていた師から、ちょうどそのころにお言葉をいただきました。
「ニートが文化をつくる。」
 なんとびっくりするような言葉。びっくりしたけれど、私の心に残る名言になりました。無職を恥じていた私の心を和らげようとしてくださったのかもしれないし、ただのジョークかもしれない。名言というより、もはや迷言なのかもしれない。ただ、意図はどうあれ、その言葉を片隅に置きながら行動するようになりました。
 朝から晩まで会社で働かされて景色も見ずに寝るだけの家に帰る。休みには反動で消費する楽しみしかなくなってしまう人たちも居る。そんな暮らしが幸せだとは思えないし、文化を大事にするはずもありません。その点、ニートは合理性の対極とでもいうのでしょうか。ニートなら時間のヒマもあるし、心の余裕もあります。お金をかけずに楽しいことをしていると、いつしかそれに共感した人たちが集まる。それが人によって発展し、いずれ文化になる。「ニートが文化をつくる。」とは、こういう意味でした(と思っている)。何かをするための「スキマ」が大事なんでしょう。いやいや、もちろんニートを推奨するということではなくてね。時間のスキマ・心のスキマ。スキマは合理性で埋めるものではなく、寛容性をもつスキマとして残しておかないといけないのかもしれません。そうしておくことで、その人たちならでは・その時ならでは・その場所ならではの、様々な顔を持った文化になるのかもしれません。

 さて今年、まか通は非常に大きな変化がありました。その人無しではありえなかった先生から私へと、急に担当が変わりました。そのことがあって、学生メンバー達が大きなイベントに追われて楽しむ余裕もない姿で動きつづけているのを見た時、まずは、このメンバーにしてあげられることを考えたいと思いました。まか通メンバーと行動を共にしながら、それはスキマをつくることだと思いました。もちろん若い大学生活なのだから、限られた時間の中で必死にもがかないと見えてこないものもあるんでしょう。でもその一方で、時間や心にスキマが無いと見つけられなかったり、素通りしてしまうことはきっと多い。そこで、後期からはチーム分けの一つとして「余白チーム」というのを作ってもらいました。余白はスキマです。時間や心のスキマをつくって欲しかったわけです。追われるプロジェクトではなく、自分たちで生んでいくという価値もひとつ感じてほしかった。六原のまちを再度フィールドワークして、自分たちで発見したまちの魅力を活かし、販売したり、イベントにまでできました。イベントに参加いただけた人の人数から考えると、イベントとしての結果は成功だとは言えないのかもしれない。けれど、スキマを持って動いてくれたからこそ生まれたものだと思っています。自分たちがすべきだと信じたことを楽しんでいれば、きっと自然に楽しさや価値を共感してもらえるはず。

 この半年間、東山の地を、まか通の学生とともに歩いていると色んなスキマと出会いました。空き家、路地、空き地(というのか広い庭というのか)。これらのスキマは意図的に減ってきています。確かに、空き家は防犯面で物騒だし、路地は防災面を考えるとそのままでの存続は難しいんでしょう。しかし、そのスキマは、寛容性として視点を変えると、何か楽しいことが生まれるんじゃないかと思うわけです。この半年で、もう充分に面白いイベントやモノゴトを見せてもらえたけれど、きっとまだまだ面白い。空き地を壊して駐車場にしてしまうのではなく、休日には仕事や消費だけをするのではなく、スキマにタネを植えたいなと思います。できることならば、楽しいだけではなくて何かの感情が動くような花を見たい。両岸がコンクリートで固められた川よりも、そのコンクリートのスキマから必死に生きている花があるほうが、きっと風情もあるし面白いんだろうな。

 さぁ、時間や心のスキマは良いとして、頭の中までスキマだらけなお花畑になっていかないように、こちらは埋めておかないと。



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